イマジナリたちの冒険が届ける、“いま”を生き抜くための「想像」の力
スタジオポノックの長編アニメーション最新作『屋根裏のラジャー』が、12月15日(金)に全国公開を迎えた。
長編第一作『メアリと魔女の花』(2017年)が150の国と地域で公開され、世界で高い評価を獲得したスタジオポノック。新たに描き出すのは、想像の世界で生み出される友達「イマジナリ」(イマジナリーフレンド)たちの“目には見えない”冒険だ。
原作は、イギリスの詩人・作家のA.F.ハロルドによる小説「The Imaginary」(「ぼくが消えないうちに」こだまともこ訳・ポプラ社刊)。子供とすべての大人たちに美しいアニメーション映画を贈り続ける同スタジオの、新たな意欲作となっている。
「現実」と「想像」の世界が混ざり合い、生み出された壮大な世界の中で、人間とイマジナリたちの冒険が届けてくれる「力」とは――?
《ストーリー》
本屋の屋根裏で暮らす、金髪の少年ラジャー(声:寺田心)。彼はいつも、友達の少女アマンダ(声:鈴木梨央)が創り出す夢のような架空の世界で彼女と遊んでいた。
アマンダが生み出す自然豊かな美しい想像の国で、二人は小さな冒険家となり、巨人や鳥や龍を眺め、時には恐ろしい生き物から危機一髪逃げ出し、笑い合う日々。しかし、ラジャーには秘密があった。それは、彼もまた、アマンダが生み出した想像の中の友達「イマジナリ」であり、彼女以外には見えない存在だということ。そして彼らは、「想像主」から忘れられたら消えていく運命を負っていた。
アマンダの母親リジ―(声:安藤サクラ)は本屋を営んでいたが、経営難により閉店日が迫っていた。そんな中、店に変わった男が訪ねてくる。ラジャーを狙っているらしいその男ミスター・バンティング(声:イッセー尾形)は、その後も彼らの前に不穏な様子で姿を現す。男から逃げ回る最中のアクシデントで、アマンダとラジャーは離ればなれになってしまう。
失意の中、町をさまようラジャーは、ジンザン(声:山田孝之)という名の謎の猫に導かれ、初めて見る美しい町にたどり着く。そこは、かつて人間に忘れられた想像物たちが暮らす「イマジナリの町」だった。
「忘れられると消える」運命でも消せない、人間たちへの愛
想像の中の自分だけの友達「イマジナリ」。豊かな発想力を持ち、空想好きな子供であれば、一度は思い描いたことがあるかもしれない。この物語は、「イマジナリ」側から見た世界を描き出すことで、彼らの存在に新たな解釈・意義を与えた作品と言える。
アマンダと離ればなれになった後、ラジャーが訪れる「イマジナリの町」は、想像主の人間から忘れられてしまったイマジナリたちが集う場所だ。その町にいれば、彼らは消えることもなく、それぞれの交友関係を築きながらおもしろおかしく暮らしている。にも関わらず、住人たちの多くは毎日 “仕事”を探して町の「掲示板」の前に集まる。彼らが求める仕事とは、「イマジナリ」を必要とする人間の期間限定の友達になることなのだ。
想像主側にどんな理由があろうとも、忘れられたイマジナリは消える運命にあり、彼ら自身はそれを恐れている。なのに、「イマジナリの町」へと戻れなければ消えてしまう可能性があると知りながら、やはり人間の世界で彼らの友達となる「仕事」を求めるイマジナリたちの姿には、胸を打たれる場面も多い。そこには、かつて人間たちに「愛」を持って生み出されたイマジナリたちからの、人間への愛があふれている。
壮大な冒険譚に内包された、普遍的な「家族の物語」
そう書くと、彼らを生み出しておきながら忘れてしまう本作の人間たちが、ひどく残酷なように感じてしまうかもしれない。だが、この映画ではラジャーとアマンダを取り巻く2人の大人の存在が、必ずしもそうではないことを考えさせてくれる。
1人はアマンダの母親リジ―だ。リジ―は、かつて生み出した自らのイマジナリを忘れ「大人」になった女性。一人娘のアマンダに心を寄せ、アマンダが話すラジャーの存在を一部容認はしつつも、もう自身の昔を思い出すことはなく、本当の意味で彼を受け入れているわけではない。
しかしアマンダにアクシデントが降りかかり窮地に立たされた時、彼女がラジャーを生み出した意義をもう一度見つめ直すことになる。イマジナリの存在理由を通して、自分が知らなかった娘の想いや、心の内に改めて気づくのだ。その場面には、子供よりも親こそがハッとするのではないだろうか。その意味でこの映画は、ラジャーの冒険譚でありながら、アマンダとリジ―を中心とした家族の物語でもあると言える。
ラジャーをつけ狙う謎の男ミスター・バンティングは、ある意味で、リジ―とは対照的な「大人=“かつての子供”」といえる。ラジャーが見える彼は、イマジナリを「忘れず」に大きくなった存在だ。ところが、イマジナリにとっては嬉しい存在なはずの彼が、ラジャーたち追ってくる姿は不穏そのもの。想像力豊かで素敵な大人には到底見えず、むしろ、いびつな“永遠の子供”のように思える。その彼が内包する力、そしてラジャーたちの戦いは、観るものそれぞれにとっての“現実”との向き合い方と「大人になるとは何か」を考えさせてくれる。
「忘れる」ことと「失う」ことは違う。
〈イマジナリ〉がもたらすものとは?
イマジナリは、子供の自由でのびのびとした「想像」の力を表す存在だが、一方で「孤独」や心の空洞を埋める存在でもあると言える。アマンダ自身も、溌溂としてエネルギッシュなリジ―の愛情を確かに受け取りながらも、表に出せない孤独と悲しみを抱えて暮らしている。
そんな子供たちがイマジナリを忘れるのは、ただ大人になり想像力を失ったからという理由だけではない。心の空洞が埋めるような他の存在が現れたり、孤独が解消されたり、現実と向き合って問題を解決できたなどポジティブな変化に由来するケースもあるだろう。
イマジナリ側から見ればそれでも残酷と言えるかもしれないが、「忘れる」ことと「失う」ことは違う。いつかは忘れてしまうとしても、人はイマジナリを必要とするからこそ、彼らを生み出す。自身の孤独や悲しみを救ってくれた存在は、例え忘れたとしても、その心の中から消えることはない。この物語からは、だからこそ、イマジナリと人間は相思相愛なのだということが伝わってくる。
本作では、新たなデジタル技術を用いたフランスのクリエイターたちとのコラボレーションによって、手描きアニメーションでは実現できなかった日本初の表現に挑戦したという。光と影のコントラストを大切にしたというその手法は、美しく果てしない想像の世界と、間に垣間見える現実の両端を見事に描き出し、物語のテーマをより印象的に浮かび上がらせている。
イマジナリの存在を通して、大人になることや家族の姿など普遍的なテーマを描き出す『屋根裏のラジャー』は、子供たちはもちろん、かつて子供だった大人にも多くの示唆を投げかけてくれる。彼らの想像力とスタジオポノックならではの心躍る美しい映像、世界観にふれながら、現実を生きていくためにこそ必要な力について、ぜひ想いをめぐらせてほしい。