大森立嗣監督 インタビュー
銃弾と共に放たれる、“零れ落ちた人々”の孤独
大森立嗣監督の最新作となる映画『グッバイ・クルエル・ワールド』が9月9日(金)に公開される。
今作では、主演に『ドライブ・マイ・カー』(2021年)の演技で海外でも一躍その名を馳せた西島秀俊を迎え、共演に斎藤工、宮沢氷魚、玉城ティナ、宮川大輔、大森南朋、三浦友和ほか豪華俳優陣が集結した。
冒頭から緊迫した雰囲気の車中にいるのは、どこか危うげな様子の5人の男女。やがて目的地付近に止まった車からは、目出し帽と銃を手にした面々が現れる。互いに素性を明かすことのない強盗組織は、ラブホテルで秘密裏に行われていたヤクザの資金洗浄現場を襲い、大金の強奪に成功。しかし、金を奪われたヤクザが強盗団追跡のために刑事を雇い、先の読めない波乱に満ちたゲームが幕を開ける。
自身にとって初となるクライム・アクションを手掛けた大森監督に、演出や映像づくりにおけるこだわり、作品に込めた想いを聞いた。
旧知のプロデューサーとの酒席で生まれた、“男っぽい映画”の企画
スタイリッシュな映像に、息詰まる銃撃戦や爆発シーン。クライム・アクションの魅力が存分に詰め込まれた本作の企画のきっかけは、大森監督と長年の親交があり、今回プロデューサーを務めた甲斐真樹氏との食事中の会話だったという。
互いに“男っぽい”映画が好きだったという2人。だが、当時大森監督は茶道をテーマにした映画『日日是好日』(2018年)を手掛けてしばらくした頃で、甲斐氏は恋愛映画を担当していた。好みとはまた異なるジャンルで手腕を発揮する中、アクション映画を作るなら、と話は大いに盛り上がった。
大森監督: アルコールの勢いもあって「こんなカッコいい男たちが見たいよね」「こういう曲がかかったらどう?」と話が尽きなかった。その後企画が動いて、トントン拍子に話が進んでいきました。
脚本を務めたのは、かつて映画『さよなら渓谷』(2013年)で大森監督とタッグを組んだ高田亮氏。西島演じる元ヤクザ、斎藤扮する危険な“半グレ”、大森南朋によるヤクザの手先となった刑事、宮沢や玉城ら純粋で危うい若者たち…。スピード感がありながら、異なる事情を抱えた多くの人物が交錯する群像劇の、それぞれの心情を繊細に浮かび上がらせたストーリーについて、大森監督は「全部が良かった」と頷く。
大森監督: 高田君とは、今作の企画が進む前に、とあるきっかけで再会して久しぶりに話をしました。その後企画が動き、脚本のことを考えている時にふと頭に浮かんだ。なんとなくもう一度組んでみるのも面白そうだな、と思って。僕からは企画コンセプトだけを伝えて、ストーリーは基本的に彼が考えました。その後、いろいろと意見は交わしましたが、土台は高田君の脚本。僕が書いていたら全く違うものになっていたでしょうね。
「既視感」を覚えるような画にはしない
新しさと心地よさを共存させた映像づくり
先の見えない物語をさらに盛り上げるのは、派手な銃撃戦やクライマックスに登場する爆発シーンだ。そうした本格的なアクションを手掛けるのも初となった大森監督は、「先輩たちから『大変だよ』って聞いていたけど、本番になったらわりとうまくいったんだよね」と笑う。
大森監督: 銃撃戦の場面は、発砲した銃弾数の整合性がズレないように計算しながら作る必要があります。例えばこっちの銃は何発撃ったから、次の動きでは弾倉の入れ替えが必要とか、どのカットで何発撃つまでを撮るかも綿密に決めて撮影しました。一度失敗すると、撃たれる側の血を付け直したり、服を取り換えたりの手間もあるので、準備には時間がかかりましたが、いざ始まったらスムーズでしたね。
ガソリンスタンド爆発のシーンは、今の時代ならCGという手もあったと思いますが、やはり実際に燃やした方がリアリティもあるし、役者も直に熱気を感じられる。制作スタッフが爆破の撮影をしても良いという場所を探してきてくれ、こちらも一発で成功しました。噂で聞いていたよりはスムーズだったので、これならもう一回やってもいいかなと思っています(笑)。
アクションシーン以外にも、今作ではソウルやR&Bの名曲をBGMに次々とカットが切り替わっていったり、暗闇と照明のコントラストが効果的に使われるなど、印象的な映像が登場する。
大森監督: この映画では、劇中に有名な曲をたくさん使うことができたので、映像との効果的なマッチング方法については思案を重ねました。ただ、こうした作品でよく知られるタランティーノ監督の作品なんかを意識してしまうと、たぶん失敗すると思った。
自分の中で大事にしたのは、観客にできるだけ「既視感」を覚えさせないこと。「どこかで見た」と思われてしまうような、分かりやすい映像にはのせない。特に音楽と組み合わせた場面で意識したのは、なるべく“新しく”見える画でありながら、それでいて心地よさを感じられること。2つを併せ持った映像づくりを目指しました。
“演技”をさせすぎず、役者の「人間的魅力」を映したい
一見荒唐無稽に思える物語にリアリティを与えているのが、主演を務めた西島秀俊はじめ、キャスト陣の存在感と“人間味”あふれる演技だ。主人公は、元ヤクザで、再び強盗という犯罪に手を染めながらも妻とやり直そうとする安西。演じた西島の魅力を、大森監督は「“大人”を担える役者」と表現する。
大森監督: 安西は、家族を守り、もう一度家庭の中に帰りたいと思っている。彼の願いは世の中で最も大切にされている部分だと思いますし、ある種「大人」として守るものを持っているということです。僕も西島さんと同じくらいの年ですが、西島さんにはその「大人」の部分を担ってもらいました。彼はある意味、映画界全体の中でもそのポジションを背負っている方という認識があるし、担える役者ですね。
西島さんに対してもそうですが、僕はわりと当初から“演技”をすることを拒否していました。むしろ役を作りきらなくていいから、場の世界(美術)や相手役の方、空気感を感じてほしいとお伝えしました。役柄に集中し、そこに向けた演技をしようとしすぎると、西島さんと役との“隙間”みたいなものが無くなってしまう。「キャラクター」になりすぎて、逆に人間としての魅力みたいなものが見えなくなってしまうと思うんです。僕はその、(役者の)人間的な魅力の部分がとても好きなので。
西島と同様に、今作ではある種の“異分子”として、社会の狭間に立つ大人の苦悩を体現していたのが、大森監督の弟でもある大森南朋といえよう。大森南朋の存在感について聞くと、大森監督は地方の美しい景色を背景に西島と大森南朋が並ぶ、とある場面を挙げて語った。
大森監督: 脚本の高田君は南朋のことも僕のこともよく知っていますが、彼が「南朋さんは本当に疲れた男の役が似合いますね」と話していて(笑)。僕も、南朋には西島さんとはまた違った妙な悲哀みたいなものがあると思っているので、その2人が並んでいるあの場面はとても面白かったですね。西島さんも今日取材でお会いした時に「南朋さんとはもう少し一緒に演技がしたかったな」と言ってくださいました。
大森監督ならではの「人間的魅力」を切り取った場面は、冒頭からいきなり見ることができる。強盗に向かう道中、レトロな水色のフォード・サンダーバードに詰め込まれた強盗団5人が物思いにふける横顔をワンショットずつ映していくカットがそれだ。諦めか、逡巡か、達観か。各自の横顔に浮かび上がる複雑な表情は、映画の鑑賞後、あらためて脳裏に蘇ってくるようなインパクトを残すが、キャスト集合初日に撮ったというこのシーン、実は“演技をせず”に生まれたのだという。
大森監督: あの場面は、僕が「役とは関係なく、風景を見てただボーっとしていてください」と伝えて撮りました。何かを“演じている”部分とはまた違う、そうした瞬間の表情やたたずまいが好きなんです。
ストレートな演技とは少し異なるという意味では、今作内でも時折フィーチャーされている「パーツ」の表現も見過ごせない。
大森監督: この映画に限っての話ではありませんが、「手」なんかは顔よりも雄弁だと考えています。意識してというよりは、感情が勝手に出てくるパーツだと思うし、嘘をつきにくい。それでいて手が動くと積極的に見える部分があるので、面白いですよね。
本当は「背中」なんかでももっと魅せられるような場面を撮りたい。西島さんも南朋もそうですが、カッコいい男たちの背中からはやはり色気みたいなものが出るから。この映画では、西島さんと友和さんが背中を向けて並び、“立ちション”をしているシーンがありますが、逆にそんな無防備なところなんかも撮りたいと思っていました。
子どもたちが持つ“純粋性”に惹かれてしまう
そうした大人の男のたたずまいや魅力を、全身で見せつける西島らと表裏を為しているのが、玉城や宮沢らが演じた“子ども”たちだ。ある意味で「静」の存在とも呼べる大人たち以上に、強いインパクトを放つ彼らについて、大森監督は意外にも次のように語った。
大森監督: 僕自身が、この映画の中で一番近く感じているといいますか、意識が向いているのは氷魚くんや玉城さんの役でした。彼らは安西が抱えた「家族」とはまた異なる、もう少し無垢なものを残していて、その無垢さが結果的に映画の中で彼らの役を光らせることになった。「子ども」だけが持てる、そうした純粋性みたいなものに惹かれる部分が僕の中にあるのかもしれないですね。
注意して見てみると、今作で一番銃を撃つ回数が多いのは、凶悪なヤミ金業者の萩原(斎藤)でも、安西でも蜂谷刑事(大森南朋)でもなく、おそらく玉城演じる美流だということに気づく。
大森監督: 意識してそうさせたわけではありませんが、やはり大人ほど引き金を引くこと、人を殺してしまうことを、そう簡単にはできない。特に家族の元に帰りたいと思っている安西なんかは銃を撃つ重みが違います。美流たちはそこまで背負うものがなく、自分たちの“純度”みたいなものだけで動いている部分があるので、引き金を引きやすかった部分があるんじゃないでしょうか。
子どもの時って、「世界は自分のもの」というような感覚になることがありますよね。大人になるにつれていろんなことを知ると、純粋な想いだけでは生きていけないことにも気づいてしまう。でも美流たちくらいの年頃でそこまで感じるのはなかなか難しいですから。
群像劇から浮かび上がらせた、「居場所のない人々」の存在
映像はあくまでシックでクール。ハチャメチャな銃撃戦もあり、紛う方なき「クルエル・ワールド(残酷な世界)」を舞台にしたクライム・アクションだが、大森監督の話から浮かび上がってくるのは、孤独や、大人と子供の分断といったヒューマン・ドラマの側面だ。この映画が内包するもう一つのテーマについて聞くと、大森監督は「居場所のない者たちの作品ですね」と少し思案しながら答えた。
大森監督: 僕にとってクライム・アクションはこれまで手掛けたことのないジャンル。銃撃戦も爆発シーンも撮ったことがないから、それはそれで一つの楽しみでした。ただ、僕の中でやはり、それだけでは物足りない想いがあった。この映画には「元ヤクザ」や「半グレ」、あるいはそれにすらなれない人々が登場します。高田君と脚本を作りながら、一般の方とは少し違う、でもいわゆるヤクザとも違う“カテゴライズしにくい人々”、ある種社会としても問題になっているような人たちが浮かびあがってきました。
世の中にはそうした「中間」というか、どこかで“隙間”に零れ落ちてしまったり、カテゴリに嵌まれない人たちがいる。それは社会のセーフティーネットから零れているという意味でもあります。この映画ではそこに視点を向けていて、美流の呟く「私たち、人数に入ってないの?」とせりふに表れていたりする 。僕はその“隙間”の人々にわりと惹かれている部分があるし、作品のテーマとしても描いています。
「人数に入ってない」「カウントされていない」「どこにも居場所がない」ことがメッセージの一つ。登場人物はそれぞれいろんな思いを抱えて生きているけれど、彼らの姿を通して「居場所のない人々」がいることを、群像劇として見せられたらいいと思っています。
[取材・文: 深海 ワタル / スチール撮影: 坂本 貴光]
プロフィール
大森 立嗣 (Tatsushi Omori)
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映画『グッバイ・クルエル・ワールド』予告篇🎞
映画作品情報
《ストーリー》夜の街へとすべり出す、水色のフォード・サンダーバード。カーステレオから流れるソウルナンバーをBGM に交わされるのは、「お前、びびって逃げんじゃねーぞ」と物騒な会話。年齢もファッションもバラバラ、互いに素性も知らない5人組が向かうのは、寂れたラブホテル。片手にピストル、頭に目出し帽、ハートにバイオレンスで、ヤクザ組織の資金洗浄現場を“たたく”のだ。仕事は大成功、5人は1 億近い大金を手に、それぞれの人生へと帰っていく。 ──はずだった。だが、ヤクザは現役の刑事を裏金で雇い、強盗組織を“溶かす”ために本気の捜査を開始する。さらに、騙されて分け前をもらえなかった強盗組織の一人が命を売ってでも一発逆転に賭けると決意、ラブホテルの従業員を巻き込んで立ち上がる。 ヤクザ、警察、強盗組織、何も知らない家族、金の匂いに群がるクセ者たち──今や人物相関図は1 秒ごとに変わり、正義と悪の境界線は極彩色に塗りつぶされていく。上手く生きられない者たちが狙うのは、最後にして最大のヤマ。もはや頭のいい作戦なんて通用しない──グッバイ・クルエル・ワールド。 |