(原題: Juste la fin du monde)
愛が終わることに比べたら、たかが世界の終わりなんて。
グザヴィエ・ドラン最新作/カンヌ国際映画祭グランプリ受賞!
描くのは「ある青年の最期の帰郷」その旅の先は ──
「もうすぐ死ぬ」と家族に告げるため、12年ぶりに帰郷する作家ルイ。母は息子の好きな料理を用意し、妹のシュザンヌは慣れないオシャレをして待っていた。浮足立つ二人と違って、素っ気なく迎える兄のアントワーヌ、彼の妻カトリーヌはルイとは初対面だ。ぎこちない会話が続き、デザートには打ち明けようと決意するルイ。だが、兄の激しい言葉を合図に、それぞれが隠していた思わぬ感情がほとばしる──。
怒り、憎しみ、悲しみ、それらを感じてしまうのは、愛しているからだ。愛されたいと強く願っていたからだ。
この『たかが世界の終わり』は12年もの間一度も家族のいる故郷へ帰らなかった34歳の作家が、自身の死の宣告を受け、それを伝えるべく故郷へ帰ってくる話である。なぜ彼は長い間故郷へ帰らなかったのか。そして長らく帰らなかった家族が突然訪れるとき他の家族はどのように彼を迎えるのか。そして彼は自分の死をどのように家族に告げるのか。描かれるのはその午後のたった数時間の家族のやりとりである。
グザヴィエ・ドランはデビュー作からずっと「愛することにとことん不器用な人々」を描き続けてきた。彼自身を投影しているのではないかと思えるそれらの作品は、家族と自分との間にある愛ゆえのひずみやねじれを、繊細に感じ取り苦しみながらもそれを冷静に俯瞰し、創作の源としているのだろう。
ほとんどが故郷の家の中での家族の会話で展開していく本作は、登場人物の「顔」から発せられるものひとつひとつがとにかく凄い。クローズアップによってスクリーンいっぱいに映し出される表情、視線の動きやしわの一本一本、よれた化粧、にじむ汗、つたい落ちる涙。彼らの間で交わされるとりとめのない会話の内容よりもはるかにこの「顔」から感じ取れることは多い。主人公のルイ役を演じているギャスパー・ウリエルはほとんど台詞が無いのだが、それを感じさせないほど彼の「顔」の演技は押し殺すような多くの思いを常に感じさせていて観ていて苦しくなる。
音楽の使い方もこれまでの作品同様素晴らしい。前作『mommy/マミー』(2014年)ではOASISの有名曲 “Wonderwall” をほぼフル尺で最高のシーンで使っていた理由を「誰にでもきっと何かしらの思い出があるであろうこの素晴らしい曲を使うことで、それまで受動的に映画を見ていた観客が、蘇るそれぞれの思い出とそのシーンを重ねて、能動的な体験をすることができる」と語っていたのだが、それはもうほんとうにそうだった。あれだけ各個人に思い出のあるだろう曲を突然流されると、驚きを感じながらもその映画はぐっと自分の方へ寄ってくる。そういった音楽によるアプローチは本作でも健在であり、また、作曲家ガブリエル・ヤレドによるどこか抑制された美しさをもつ曲たちが随所にちりばめられ、この作品をよりドラマティックに際立たせている。
登場人物は主人公と母、兄、兄の嫁、妹の5人だけである。このなかで重要なのが兄の嫁の存在だ。彼女だけがこの家族とは血の繋がりのない、鑑賞者と近い視点でこの家族を見ることのできる唯一の人物であり、彼女がそこに居ることでこの家族の愛ゆえの息苦しさが際立っている。そしてこの家族を客観的に見られる彼女だけが、「あること」に気づくことができるのである。
怒り、憎しみ、悲しみ、それらを感じてしまうのは、愛しているからだ。愛されたいと強く願っていたからだ。グザヴィエ・ドランはそんな思いを込めて、衝撃のラストシーンを苦しくなるほど美しく、強く、鮮やかに描き切ったのだろう。こんなにも美しい、西陽の射すシーンをこれまで観たことが無い。
映画『たかが世界の終わり』予告篇
映画作品情報
第89回 アカデミー賞 外国語映画賞<カナダ代表>
原題: Juste la fin du monde
原作: ジャン=リュック・ラガルス「まさに世界の終わり」
配給: ギャガ株式会社
2016年 / カナダ・フランス合作映画 / 99分 / カラー / PG12
新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町、
YEBISU GARDEN CINEMA 他全国順次ロードショー!