- 2015-12-9
- アジア映画, 映画レビュー, 映画作品紹介, 第28回 東京国際映画祭
映画『ガールズ・ハウス』
(原題:Khaneye Dokhtar/英題:The Girl’s House)
サミラはなぜ死ななければならなかったのか。
《ストーリー》
イランの大学生のバハルとパリサ。二人は都会のショッピング街に繰り出し、服や靴選びに興じる。明日は同級生サミラの結婚式。そこには自分たちの「出会い」もあるかもしれないのだから、式に着ていく服や靴には妥協などできるはずがない! ところが、そのサミラが死んだという突然の電話が! 状況から、サミラは自殺ではないかという噂が広がる。ほんの数時間前、幸福そうなサミラの声を聞いたばかりなのに…。サミラの父は婚約者・マンスールがサミラを殺したのではないかと疑っている。あんなに仲のよい二人だったのに。彼女にいったい何があったのか? 二人は親友の名誉と真実を求めて動き出す。
《みどころ》
イラン国民の日常生活について、私たちはあまり情報を持たない。イランとイラクの違いさえすぐにはわからないくらい遠い存在だ。ところが、映画の冒頭、スマホ片手に明るいショーウィンドウをはしごして、女学生たちが思い切りオシャレを楽しむシーンや、嬉々として新婚夫婦の新居に新しいカーテンを取りつけるサミラを観ていると、若者というのは世界中どこでも皆同じなんだといい意味で裏切られる。
一方で、説明されなければわからないこともも、やはり存在する。タリバンなどの狂信的な原理主義者たちは女性の教育や社会進出を嫌うが、実はイスラム社会では、大学教育を受ける女性の割合が男性より多いのだという。サミラは大学生で、男女共学の環境を当然のように享受している。だが婚約者のマンスールは大学に行っていない。サミラが好きな詩をマンスールは知らない。イランは大家族主義で、男性は家族の長として経済的に早く自立し稼ぐ必要がある。その分、娘たちには自分が果たせなかった教育を受けさせる傾向があるらしい。その結果起きる男女の環境のギャップが、物語の中で微妙な影を落としていることはたしかだ。
もう一つ、イスラムの教えでは、キリスト教と同じく自殺はもっともいけないことの一つなのだそうだ。それで親族はサミラの死因を公にしたがらず、葬儀も内輪で行われる。大学で予定されていた追悼集会も、「自殺か?」の見出しで報じる新聞記事が出たことで中止となる。
婚約者によるモラハラや、第三者による魔の手をにおわせる伏線をからませ、ミステリータッチで進行する物語の、予想だにできなかった結末。そんな前近代的なことを「嫁として当然」と強要されるなんて、同じ習慣を持たない私たち日本人には俄かに信じられない。でも、サミラにとってもそれは同じだったのだ。一方に、都会的で進歩的な女学生たちがいて、もう一方には昔ながらの慣習こそがすべてと考える家制度が厳然と残っている。ギャップのために起こる悲劇。
「ガールズハウス」というタイトルは、「家に入るときは、必ずノックしましょう。土足でガールズハウスに入ることは、それが身内であっても、愛する人であっても、マナー違反ですよ」という気持からつけたと監督は言う。結婚は、個人と個人のものであると同時に、必ず家と家との結びつきをもたらす。だからこそ、心に「ノック」することはとても大切なのだ、と。これは万国共通なのではないだろうか。
すべてが明らかになっても、バハルとパリサの心は晴れない。サミラに起こったことは、バハルにもパリサにも起こりうることなのだ。なぜサミラは死ななければならなかったのか。死なないためにはどうすればよかったのか。考えれば考えるほど、その答えは、容易には出ない。
映画作品情報
英題: The Girl’s House
監督: シャーラム・シャーホセイニ (Shahram Shah Hosseinie)
脚本: パルウィズ・シャーバズィ
プロデューサー: モハマド・シャイェステ
撮影監督: モルテザ・ガフリ
出演: ハメッド・ベーダッド
ラーナ・アザディワル
ババク・カリミ
ペガー・アハンガラニ
バラン・コーサリ
ローヤ・テイムリアン
パルディス・アーマディエ