第26回釜山国際映画祭(BIFF)
映画『名付けようのない踊り』上映後オンラインQ&A
盛況のオンラインティーチイン
田中泯「踊りは“踊り手と観客の間で新たに生まれるもの”」
映画『メゾン・ド・ヒミコ』(2005年)、『のぼうの城』(2012年)、『ジョゼと虎と魚たち』(2020年)などで知られる犬童一心監督が、世界的なダンサーとして活躍する田中泯の踊りと生き様を追った映画『名付けようのない踊り』が第26回釜山国際映画祭(BIFF)のワイドアングル:ドキュメンタリー・コンペティション部門に正式出品。10月8日(金)に韓国・釜山でワールドプレミア上映された。
1978年にパリデビューを果たし、世界中のアーティストと数々のコラボレーションを実現、そのダンス歴は現在までに3,000回を超える田中泯。映画『たそがれ清兵衛』(2002年)から始まった映像作品への出演も、ハリウッドからアジアまで広がっている。そんな独自の存在であり続ける田中泯のダンスを、映画『メゾン・ド・ヒミコ』(2005年)への出演オファーをきっかけに親交を重ねてきた犬童一心監督が、ポルトガル・パリ・東京・福島・広島・愛媛などを巡りながら撮影した。
同じ踊りはなくジャンルにも属さない唯一無二の“場踊り”を、息がかかるほど間近に体感できる本作。いったい、田中泯はどんな道を辿ってここまで来たのか?犬童監督は、『頭山』(2002年)で海外の名高い賞に輝いた山村浩二によるアニメーションを交えながら、情感豊かに田中泯の人物像を紐解いていく。
新型コロナウィルス感染防止対策で空けられた観客と観客の間の席には、映画祭で上映される作品のポスターが数多く設置され、色とりどりの映画ポスターに囲まれた環境の中で、上映後に田中泯によるオンラインティーチインが行われた。
―― 映画『メゾン・ド・ヒミコ』(2005年)で田中泯さんを知って調べたところ、泯さんがダンサーであることを知りました。ダンス以外の俳優業・声の仕事等で、どういったインスピレーションを得ていますか?
田中泯: 初めて映画に出たのは57歳で、 映画『メゾン・ド・ヒミコ』に出演したのはおそらく59歳の時だと思います。それまで、自分がドラマや映画などで演技をすることは考えていませんでした。
踊りが自分の人生の仕事なので、“自分ではない人になる”というのは、貴重な体験です。“身体ごと他者を知る”ということは、願ってもいなかった、とても大切な仕事。お芝居をする事が、すごく踊りに影響をしていると思います。
―― 泯さんがどういった踊りをされているのか気になってこの映画を観て、すごく驚きました。想像していた踊りよりも“濃い芸術”といった印象でとても長くダンサーをされていたことが伝わりました。どういったきっかけでこの映画がつくられたのですか?
田中泯: ポルトガルの芸術祭から招待され、犬童監督に『ポルトガルに一緒に行きませんか?』とお誘いしました。犬童監督が『せっかくだから記録したい』ということで、撮影が始まりました。その時だけのつもりで撮影していたのですが、その後短く編集したものを見せていただきながら『ひょっとしたら長編映画にできるのではないか』と監督からご提案いただき、色々な場所で撮影する流れになりました。
なので、当初から企画をした訳ではなかったのですが、犬童監督は途中から映画化することを強く意識し始めたのだと思います。そしてこのような形で完成し、私は光栄です。
―― 私は、田中さんの大ファンでもあり、映画『サバハ』(2019年/原題『사바하』)を監督したチャン・ジェヒョンです! 踊りというものは、いつはじまって、いつ終わるのですか?
田中泯: 短く答えると、生まれた時から踊りは始まっています。私たちが自意識を持ち始めるのは3~4歳からだと思いますが、それ以前の子どもたちは言葉を持たずに、身体を動かして生きています。そこから踊りが続いていると思うし、私は踊り手として、そう思いたい。
確かに踊りは、踊りはじめの時間と、終わりの時間を想定しなければなりません。 私自身は踊っているときの自分が一番好きですし、本当はずっとそのまま生きられたら幸せだと思うのですが、お祭りなどと同じように、終わりは来る。でも私は、心の中では、はじまりも終わりもなく踊っていると言えます。
したがって、私にとっての踊りは、時間を切り取った作品としては成立しないのです。“現在”の私の踊りに、自分の“過去”や“未来”が入ってくるものだと思っています。
これに対し、チャン・ジェヒョン監督は 「素敵な回答、ありがとうございました。いつか一緒に、泯さんが育てた野菜を食べながら、楽しい時間を過ごしてみたいです。コロナが収束したら、韓国でも公演が開催されることを期待しています」と返した。
―― 世界各国で踊りを踊られてきたのだと思うのですが、一番印象に残っている踊りはありますか?
田中泯: 踊りは比較するものではないと思っているので、“一番”などと順位をつけるのはあまり好きではないのですが、本当に逃げ出したくなったような記憶が一つあります。 暗かった時代のチェコ、プラハに踊りに行った時のことです。
社会主義の時代で、後に革命を起こした方々に呼ばれて、秘密裏に踊りに行きました。逃げる練習までして、即興で踊りを踊ったのですが、その時は本当に逃げたいと思いました。もし秘密警察に知られたら、日本に帰れなくなるという不安もありました。
ただその後、旧ソビエト、ポーランド、ハンガリー、ルーマニアなど社会主義国を、毎年のように巡るようになり、凄く大事な勉強になりました。また、韓国や農村地帯に行って踊りたい気持ちも強いです。
―― 映画を観て感銘を受けました。「踊りというのは踊り手と観客の間で新たに生まれるもの」とお話しされていたと思いますが、踊りを見ている方のリアクションによって踊りは変わるのでしょうか? また、踊りというのは現場の空気感が大事だと思うのですが、映画を観てどういう風に感じますか?
田中泯: この作品は、犬童監督が現場のライブ感を大切にしながら制作したものです。映画の中で、私は違った空気・違った場所・違った人々の前で踊っていますが、そのまま映像にしてしまうと現場の臨場感が伝わり辛く、踊りがもう一度、映像の中で生き返る事はできないと思いました。そこで犬童監督は、踊りを時系列にして見せるのではなく、踊りをしっかり見てもらえるように、自由に編集してくださいました。
踊りというのは“踊り手と観客の間で新たに生まれるもの”だと思っていて、人間だけでなく、動物、草木や花も、私との関係の中で、踊りを感じているはずです。つまり、命のコミュニケーションをしているわけです。
私は踊りを、私が作った作品として持ち歩くつもりはありません。その場で生まれるものが踊りだと思っています。その為には、私の身体の外にある世界とコミュニケートすることが私の仕事だと思っています。
―― 最後に、観客の皆さんにご挨拶をお願いします。
田中泯: もっとお話ししたかったですし、韓国はチャン監督やたくさんのお友達がいて、本当はそちらに飛んでいきたい気持ちです。今日は皆さんありがとうございました。踊りを好きなっていただけたら幸いです。
終了時間となっても観客からの質問の手が挙がり続ける中、やむなく終了となったティーチイン。釜山の観客、そして久々の再会を果たしたチャン監督と熱い想いを通わせ、盛況のうちにQ&Aが終了した。
映画『名付けようのない踊り』は、10月30日(土)~11月8日(月)に開催される第34回東京国際映画祭(TIFF)のNippon Cinema Now部門でも上映される。
イベント情報
第26回釜山国際映画祭(BIFF)
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登壇者プロフィール
田中 泯 (Min Tanaka)1945年生まれ、東京都出身。1966年クラシックバレエとアメリカンモダンダンスを10年間学び、1974年より独自の舞踊活動を開始、1978年にパリ秋芸術祭「間―日本の時空間」展(ルーブル装飾美術館)で海外デビューを飾る。2002年の『たそがれ清兵衛』でスクリーンデビュー、同作で第26回日本アカデミー賞新人俳優賞、最優秀助演男優賞を受賞。ほか、主な映画出演作は『隠し剣鬼の爪』(2004年)、『メゾン・ド・ヒミコ』(2005年)、『八日目の蝉』(2011年)、『外事警察 その男に騙されるな』(2012年)、『47RONIN』『永遠の0』(2013年)、『るろうに剣心 京都大火編 / 伝説の最期編』(2014年)、『無限の住人』『DESTINY鎌倉ものがたり』(2017年)、Netflix映画『アウトサイダー』(2018年)、『羊の木』『人魚の眠る家』(2018年)、『アルキメデスの大戦』(2019年)、韓国映画『サバハ』(2019年/未)、『記憶屋 あなたを忘れない』(2020年)、『バイプレイヤーズ もしも100人の名脇役が映画を作ったら』『いのちの停車場』『HOKUSAI』(2021年)、今後の公開待機作に『峠 最後のサムライ』(2022年公開予定)などがある。 |
映画『名付けようのない踊り』予告篇🎞
映画作品情報
アニメーション: 山村浩二
音楽: 上野耕路
配給・宣伝: ハピネットファントム・スタジオ
制作プロダクション: スカイドラム
製作: 「名付けようのない踊り」製作委員会
© 2021「名付けようのない踊り」製作委員会