映画「禅と骨」公開直前!カウントダウン上映会&シンポジウムレポート

【写真】映画「禅と骨」公開直前! カウントダウン上映会&シンポジウム フォトセッション

映画『禅と骨』公開直前!
カウントダウン上映会&シンポジウム開催!

こんなにあった!映画と科学/化学の類似点。
ドキュメンタリーの“記憶と時間”の捉え方、そして“骨”とは・・・?

8月24日(木)に東京・渋谷のユーロライブにて、公開を9月2日(土)に控えた映画『禅と骨』(Zen and Bones)の“公開直前!カウントダウン上映会”が開催された。

本作は、『ヨコハマメリー』(2006年)の中村高寛監督が11年ぶりに撮った長編ドキュメンタリーの最新作で、横浜生まれの日系アメリカ人 “青い目の禅僧” ヘンリ・ミトワの破天荒な一代記。どんな仕事をしていても、その道を極めていけば、全ては禅に通じていく“ドキュメンタリー+ドラマ+アニメ”とジャンルを縦横無尽に駆け巡る異色作である。

今回、様々な専門ジャンルの人に『禅と骨』を多角的に語って欲しいという配給側の願いから、上映終了後に、中村高寛監督、ゲストとして生物学者の福岡伸一氏と『FAKE』(2016年)の森達也監督を迎えたシンポジウムが実施された。

分野こそ違うが、それぞれの境界のボーダレスを標榜、意識する二人の作家と中村高寛監督によって、映画と科学/化学の類似点や、ドキュメンタリー作品の中での“記憶と時間”の捉え方、そして“骨”とは?と非常に重層的な議論が展開され、観客の皆さんの満足度が非常に高いシンポジウムとなった。

トークショーレポート

8年かけて『禅と骨』を撮りあげた中村高寛監督は、「今日は観ていただきましてありがとうございます。『ヨコハマメリー』からすると、11年振りに表舞台に出てきたので、非常に戸惑っています。こんなに多くの人に会っていなかったので、非常に緊張しています。この映画の広告が終われば、また10年位あまり人に会わなくなるので、今の時期に人にいっぱい会っておこうと思って(笑)。色々な話を聞いて自分の中に蓄えて、10年間を次の映画に頑張ろうと思っています。といいながら、3年後に撮ったらすみません(笑)。よろしくお願いします。」と笑顔で挨拶を行なった。

【写真】中村高寛監督

『禅と骨』は、中村監督が「僕が撮っているんだから、素直に終わらない。」と言うだけに、どのジャンルにも属することのないドキュメンタリー映画の概念を大きく覆した作品である。今回、色々なジャンルの人々に観てもらい、様々な視点からの意見を集めて、この作品の全体像を観るために、生物学者の福岡伸一氏と森達也監督がゲストに呼ばれたという。

生物学者の福岡氏は、「私は映画のことは、ほとんど分からないので、この場に呼ばれること自体恐縮しております。」と挨拶を述べて、「科学の営みと映画の営みが似ていると感じました。世界をどういう風に記述すべきかという問題に、科学も映画も常に向き合っているのではないか。」と共通点を指摘。入学後直ぐの学生に、科学実習で顕微鏡で細胞を見てスケッチしてもらうと、ほとんどが見えた通りのあやふやな絵しか描けないが、1年間細胞を学び、もう一度同じ条件で書かせると、正確な細胞が書けるようになるという。その理由を「最初は混沌でランダムでぐちゃぐちゃだったものに名付けることによって、色々なものが分節化され、分離化され、抽出されて見えるようになる。科学はそれが生命現象で、細胞の中で行われているミクロなシステムはそういう装置によって機能分担されてできているんだと思っているんです。でも、それはある種のドキュメンタリーであって、切り取られた物語なんですね。」と類似点を語った。この映画にも出てくる星空を例えて、「実際に夜空を見上げると、名もない星がランダムに無限の数に散らばっているわけなんです。人間はその中で目立つ星を見つけて、それを線で結んで、あれが北斗七星だとか、オリオン座だとかいう風に名付けて、それを切り出して見ているわけですが、オリオン座は宇宙の果てに貼り付いているわけではなくて全然距離が違う。むしろ勝手に結んでオリオン座だと言っているだけで、今から100万年が経過したら、星の位置が変わってオリオン座が崩れてしまっているはずなんです。それと同じことが細胞を1年間勉強して観察すると、見えるという行為によって、名付けられて分節化されていくわけですね。だから、何かが分かるということは、何かを見失うことと同義語だなという風に感じました。」と解説した。

【写真】生物学者 福岡伸一氏

福岡氏はさらに、「細胞というのは透明なんですよ。それが水に浸かっていたら、プールの中にサランラップを入れて見ているように境界が見えないんですよ。だから、非常に強力な化学物質で着色をして、境界面をくっきり見えさせることが必要だし、細胞には厚みがあるので、強力な光源を下に置いても光が通ってこないんです。非常に特殊なガラスやダイヤモンドのナイフで薄切りにして、切片にして、それをガラスに貼り付けないと見えないんです。我々が細胞を見ていると言ったとき、見ている像というのは着色されて線が太くなった映像だし、薄切りにされていますから、もうそこには生命現象はない。フリーズされて止まっているものを見て、色々なことを論じているわけです。世界を記述することは、脳の作用でもあるけれども、ある種の秩序や図形、物語を抽出する操作を抜きにして、人間は対象物を認識できない。けれども、それは人工的な営みだという意識を常にもっていないと、何か違う幻想を見てしまう。科学の営みで最もやってはいけないことは、直感に頼ることと度胸を出すことなんです。」と説明した。そして、「本当に人間の脳がこの世界の中に見る映像というのは、ある種のビジュアルであって、幻想というか、自分の見たいものを投影していることにコンシャスじゃないと、科学者はいつも見誤ってしまう。森さんの作品『FAKE』もそうでしたし、今日の『禅と骨』も2時間近く長い時間を費やして、非常に手法は全然違っていますけれども。細胞だったら、何枚も何枚も切片を作って、単に断面じゃなくて、それをCTスキャンみたいに重ねていって、立体的に集合し、そこに止められてしまった時間をなるべくつなぎ合わせて、もう一度干からびた細胞を生きたものとしてみようという。それぞれの長い時間をかけた努力というのを感じました。」と生物学者の視点からの感想を述べた。

【写真】生物学者 福岡伸一氏

本作を2、3年位リサーチして、約400時間の撮影をしたという中村監督は、「福岡先生の話を聞いて共感するのは、ドキュメンタリーを撮るには、ある現実に共感しなくてはならない。ここで(会場の)お客さんを撮ったとしても、単なる映像であって、ドキュメンタリーの絵にはならないんですよね。なので、意識的にどこを撮って、そこにどういう意味があるのかということを突きつめていかないと、単なる絵でしかないんですよね。それをどう構築していくかというところで、現実を切り取った絵が映画に変わっていく。ある積み重ねみたいなものという、細胞の一つ一つの話をされていましたけれども、私たちも本当に最初は漠然としたものを意識として自分たちに認識していって。それは、対象の人物像でもあり、取り巻く背景でもあることを一つ一つやっていく中で、それが浮き上がっていく。浮き上がっていく絵というのは、ただ撮られた単に撮った絵ではなくて、ちゃんと作家の視点のある絵に変わっていくという風に思っています。福岡先生の話を聞いて非常に納得するところがあるのですが、森さんはいかがですか。」と福岡氏の意見に共感すると答えた。

【写真】中村高寛監督

「ドキュメンタリーは嘘をつく」(草思社)でも、ドキュメンタリーは主観的表現であるという森監督は、「ドキュメンタリーは、僕はよく化け学の実験に例えるんですね。要するに被写体をフラスコに入れて、触媒を入れたり、熱したり、冷やしたり、揺すったり、色々な刺激を加えて、どう反応するかをじっと見ていて。その反応の中から、いくつか自分の中の何かに触れたものを録画して編集してという。場合によっては、自分もフラスコの中に入って、刺激しているつもりが、逆に刺激をされたり、挑発しているつもりが、挑発仕返されたり、相互作用ですよね。そうしたことを経ながらドキュメンタリーというのは出来上がると思っているので、まさしく中村さんが言ったように、ただ撮っているだけでは、ドキュメンタリーではなくて、ただの映像です。もし、ドキュメンタリーにしようと思ったら、僕がみなさんを挑発するとか、怒らせるとか、いきなり銃を出して撃つぞと言ってみるとどういう反応をするのか、色々とやり方はあると思うのですけれども、これがドキュメンタリーの演出だと思うのですね。極めて恣意的なものと、よくラインはどこでしょうかと言われますが、ラインじゃないんですよね。線で分けられるものじゃないし、そういう意味合いで今日観ていて、僕は2回目なんですけど、改めて編集が苦労していますよね。みなさんも気づいたと思うけれど、インタビューをして普通にそれがラストショットというのは、まずないんですね。色々なものを打ち込んでくるから、アメリカのドキュメンタリーのスタイルにちょっと近いんだけれども、全然それとも違いますね。さらには、インタビューの中にドラマの部分を入れてきたりとか。ドキュメンタリーのドラマって難しいんですよ。まず失敗します。それが1回目観たときには全く違和感がなかったので、不思議だなと思ったんだけど、今日観て、やっぱり相当これ苦労して考えて、計算して作っているんだなと思いました。だから、福岡さんが直感というものが科学的なアプローチを阻害する場合があると話をされていましたけれど、直感と同時に色々な角度から見たり、検証したり、日にちを置いてもう1回見るとか、相当編集に時間がかかったでしょう。」と中村監督に編集について問いかけた。

【写真】森達也監督

中村監督は、「構成自体は撮影して1年目位で立てはじめて、編集の方に入っていただいて、トータルで1年半とか2年位はかけて作り込んでいるので、かなりかけていますね。『ヨコハマメリー』よりも全然かけています。こっちの方が時間は全然かけていますし、あんまりネタばらしをするとよくないけれど、かなり細かく作り込んでいます。1個1個のシーンも含めて。」と時間をかけて細かく作り込んだことを明らかにした。

福岡氏も、「単にお墓に行くだけでも、すごく切り替わるじゃないですか。ちょっと目がチラチラする位に激しくカット割りが入るのは、どういう意図なんですか。森さんの『FAKE』を観ると、定点カメラでずっと長回しというか、ずっと何かを捉えている時間があって。今回の映画だと、長くカメラが回っていたのは、あの家族が集って喧嘩するシーン位で、後は非常に小刻みにシーンが切り替わるというか、同じシーンなのに切ってつないでますよね。それはどうしてそういうものが好ましいと思われたのですか。」と質問をした。

中村監督は、「いくつか要素があって、一つは本当にヘンリ・ミトワの半生というか、全人生を描いているので、正直に言ってこの尺におさめるには、それなりにテンポ良くみせるしかなかったというのが一つと、後は、『ヨコハマメリー』のときから、私にはあるのですけれども。日本のドキュメンタリーは素材をガッツリとみせるところがあって、アジアのドキュメンタリーでもそういうのが多くて。それは、僕は全く否定はしていないのですけれども、自分が撮るときには、素材主義ではなくて、ある程度、映画としてみせていきたいというか、そういう思いがあって、ある程度テンポが良いつなぎにしています。ただ長くみせれば面白いとか、そういうことではなくて、本当にそのカットに力があれば、僕は短くても成立するのではないかと思っていて。逆に、カットを積み重ねることによって、より強い意味が出るのではないかという風に思って、こういう編集や作り方にしています。」と映画のみせ方について答えた。

【写真】中村高寛監督

さらに福岡氏は、「私が感じたことは、時間というものはどういう風に記述するのかなって、どう描くのかなっていうことを興味深く拝見したんですよね。それは、生物学にとっても、時間とは何かというのがすごく大事な問題で、我々というのは、時計とかカレンダーとか、手帳があるから、時間が過去から現在、未来に流れている風に見えますけれども。実は、1週間前や1年前、3年前、10年前に起こったことを何の手がかりもなく、単にイメージとして出されたら、多くの人はそれを時間順に並べられないはずなんです。つまり、古い記憶が古いわけではなくて、ビビットであったり、昨日あったことなのに、すごく遠い昔みたいに感じたりという風に、我々にとって、対談している時間というのは、いったい何なのかというのは、とても大きな問題なんですよね。時間というのは、本当に実在しているのか。生命が生きているから、はじめて時間というものを感じているのかもしれないと。むしろ私はそれに近い立場にだんだん最近なっているのですけれども。そうすると、現在、今と考えている時間というのは、本当は点ではなくて、もうちょっと厚みがあるもので、そこには過去も含まれているし、未来も同時に含まれている。パラパラ漫画みたいに時間は経過しているわけではなくて、パラパラ漫画の1枚1枚に本当はもっと空間的な厚みがあって、1枚のパラパラ漫画に、過去のものと、これから起こる未来のものが同時に含まれていて、それが互いに重なり合っているから、はじめて時間というものがつながっていくという風に考えた方が良いんじゃないかと思うんですよね。それをつなげているのは、実は記憶の作用であって、実際に物質レベルでは、我々というのは、ものすごい速度で合成と分解が繰り返されているので、昨日の私はもう今日の私ではないし。1年前の私と今日の私では、物質レベルでは90%以上が入れ替わっているけれども、私が私だっていう風に言えるのは、記憶が何とかその時間をつないで紡いでいるからなんですよね。だから、ああいう風にカット割りをたくさん多用されて、パラパラ漫画みたいにみせつつも、一つのシーンに過去と未来が同時に含まれていて。ミトワさんは、自分は過去にしか興味がないと言いつつも、常に未来のことをやろうとしている。そこにまさに時間が含まれているなという風に感じました。」と印象を述べた。

【写真】生物学者 福岡伸一氏

中村監督も、「福岡さんの言うことにすごくそうだなと納得するのは、逆に言うと、この映画にしても2時間7分あるんですけれども。実をいうと時系列通りに追っては全くないんですね。撮った順もそうですし、かなり入れ替えたりとかしているんです。なので、映画を撮った時点で、もう1回映画の世界の中の時間軸を作らなければならないというのがあって。ある映画の時間軸の中で、濃縮されたシーンも撮れば、今言われたみたいに、あえて時間というのを分断することによって、時間というのを感じさせるということも、あえてそれはやっています。ドキュメンタリー映画の中には、ワンカット3時間のような映画もあったりしますけれども、それはそれで、一つのある時間の濃縮だと思うのですね。ではない形で時間というのをどういう風に描けるのかというのは、いつも考えてやっています。記憶と時間というのは、ドキュメンタリーを撮る上では、必ず命題としてぶち当たることなので、そこにどう自覚的に向かえるのかっていうのは、森さんよくやりますよね。」と森監督にも確認した。

森監督は、「ほぼ2時間弱ですよね。ドキュメンタリーに限らず。人間の生理も2時間位が集中の限界だという。もちろん個人差はあるんでしょうけれども。多分、映画というのは、色々な時間軸がある。」と話し、「映画の中に時間軸は新たに設定をしなくてはいけないわけで、それが時空ってこともありますけれど、時間と空間。世界を再生しているわけで、時間だけではなくて、空間も作らなければいけないわけで。時間を作ることは、空間を作ることになるわけで。ということは、ドキュメンタリーも同じですよね。世界を作り出すこと。その中に再現するわけですから。このドキュメンタリーは事実か否かという非常にレベルの低い議論。それぞれ映画を撮れば良いと思っているし、多分、中村さんもこの映画を作りながら撮りながら、編集しながら、そういう嘘か本当かみたいな、(過去に)とんでもないくだらないレベルの議論もあったじゃないですか。そういうことも踏まえて、思いっきりやってやろうというのがあったんじゃないかと推測するんですがどうですか。」と中村監督に尋ねた。

【写真】森達也監督

中村監督は、「これは本当に私のほぼ10年、『ヨコハマメリー』以降のドキュメンタリーというか、映画は何だみたいなことは、全部中に入れているつもりです。それは、ドキュメンタリーは何だという定義も含めて、そういうものを1回壊したいというのがあって、これ全部この中でやっています。なので、『ヨコハマメリー』が好きだという人がこの映画を観ると、何?っていう人がよくいるんですけれども、1回全部自分で壊していかないと、今の自分のスタイルであるとか、ドキュメンタリーとは何ぞやというのを壊していかないと、新しいものは生まれないなあと。そこから、どう再構築していくのかっていうのが、今回の映画のテーマでした。」と核心を語った。

【写真】中村高寛監督

それを聞いて福岡氏は、「よく学生に言うのですけれども、2003年から2004年にかけて、ヒトゲノム計画というのが完成して、生命が使っているタンパク質の部品というのが、1個も残らずリストアップできたんですよ。その数は、2万3千種類位あって、DNAの端から端まで全て遺伝暗号を解読すると、2万3千個の部品が見つかった。だから、無限の神秘であった細胞の生命活動が2万3千個という有限なパーツから成り立っていることが分かったということで、我々分子生物学者は、もう未知の遺伝子を見つけることが出来なくなったわけなんですね。そのことによって、生命の何が分かったかというと、生命のことは何も分かっていないことが分かったんです。それはちょうど、映画を逆から観ているのと似ていて、映画の最後にエンドロールでスタッフの名前とか、配役の名前とか、俳優と登場人物の名前がバーっと出てきますよね。どういう役者がどういう名前でどこに使われているか。主役だから最初の方に書かれて、最後の方に監督がいる位の順列は分かるけれども、どんなドラマが成り立っているのかというのは、個々の要素が分かったところで、分からないものなんですね。つまり、生命現象にとって、大事なのは、要素をピックアップして、一つ一つを記述することも大事なんですけれども、要素と要素がどう関係しているのかという関係性を解かないわけには、映画の中身を観ないことには分からない。しかも、我々の生命現象という映画は、毎回1回制のものなので、同じ配役でも違うドラマになってしまう可能性もあるわけですよね。映画人と我々科学者は分野が違うし、やっていることも違うのですが、志は同じじゃないかと。世界をどう記述していけば良いのかということに日々悩み悩まされているんじゃないのかなって思っています。」と志の共通点にも言及した。

【写真】生物学者 福岡伸一氏

「最後に一つだけ聞きたいことがあるんですけれども。監督の僕が言うのも変なんですけれども、ここまで骨が出てくる映画っていうのは、不思議な映画だと思うのですけれども。福岡先生から、この映画を生物学者から観て、骨というのは、どういう風に捉えているのか。この映画を観て、骨に関する扱いも含めて、どう観たのかというのをお聞きしたい。」と中村監督は福岡氏に骨について質問した。

福岡氏は、「人は死ねばどこに行くのか。死んだら何が残るのか。焼いたら骨が残ります。でも、生きている我々の骨は、カチッとしている個体ではなくて、骨の中身は破骨細胞という骨を壊す細胞と増骨細胞という骨を作り出す細胞のせめぎ合いが毎日行われていて、常に骨は壊れつつ、再形成されて生きている。」と話し出し、火葬をすると、「高熱によって、肉の部分は二酸化炭素と水になる。骨の部分はカルシウムが含まれていますので、生命現象が止まると、実体としてそこに残っているように見えますけれども。別に燃やせば骨が残っていくのではなくて、そこに残っているのは、生命体の何らかの残骸です。二酸化炭素と水として、空気中に流れていくというわけですけれども。それは、別の生命体の一部になるわけです。その人の骨も地中に長く埋められれば、一部は他の生物によって、再利用をされて、また生命の大循環の中に回っていきます。そして、その人の最も大事な記憶というのは、残された人の記憶の中に、また溶け込んでいくのですよね。そういう意味では、象徴的にみんなが骨を大切にしていますけれども、ある意味では、流れているんだなという風に観ています。」と骨について解説した。

『禅と骨』は、日系アメリカ人ヘンリ・ミトワ氏とその家族を題材に、これまでの中村監督の全てを壊して、新たに再生されたジャンルに捉われない渾身の作品。破天荒な京都の禅僧の一代記もテンポ良く楽しめて、ドキュメンタリーとは何かという問いかけも秘めた中村監督自身も禅人に思えるとても面白い作品である。

[スチール撮影&記者: おくの ゆか]
[メインスチール写真: オフィシャル提供]
 

イベント情報

<映画『禅と骨』公開直前!カウントダウン上映会>

日時: 2017年8月24日(水)
場所: 渋谷 ユーロスペース
登壇者: 中村高寛(映画監督)、福岡伸一(生物学者)、森達也(映画監督、作家)

映画作品情報

監督/構成/プロデューサー: 中村高寛
プロデューサー: 林海象
ドラマパート出演: ウエンツ瑛士、余 貴美子
ナレーション: 仲村トオル
音楽: 中村裕介×エディ藩・大西順子・今野登茂子・寺澤晋吾・武藤イーガル健城
挿入曲:「赤い靴」岸野雄一×岡村みどり×タブレット純、「京都慕情」岸野雄一×重盛康平×野宮真貴
エンディング曲:「骨まで愛して」コモエスタ八重樫×横山剣(CRAZY KEN BAND)
2016 年 / 127 分 / HD 16:9 / 5.1ch
配給: トランスフォーマー
© 大丈夫・人人 FILMS
 
2017年9月2日(土)より、
ポレポレ東中野、キネカ大森、横浜ニューテアトルほか全国順次公開!
 
映画公式サイト
公式Twitter: @zenandbonesfilm
公式Facebook: www.facebook.com/zenandbonesfilm/

この記事の著者

おくの ゆか

おくの ゆかライター

映画好きの父親の影響で10代のうちに日本映画の名作のほとんどを観る。
子どものときに観た『砂の器』の衝撃的な感動を超える映像美に出会うために、今も映画を観続けている。

★好きな映画
『砂の器』[監督: 野村芳太郎 製作: 1974年]
『転校生』[監督: 大林宣彦 製作: 1982年]
『風の谷のナウシカ』[監督: 宮崎駿 制作:1984年]
『硫黄島からの手紙』(Letters from Iwo Jima) [監督: クリント・イーストウッド 製作: 2006年]

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